海苔の歴史
一体海苔はいつ頃から食べるようになったのでしょう?
日本神話の中に天孫族と海人族の話の中に『海に潜り海底の粘土をくわえてきて平らかめを造り海布の茎を刈って・・・(略)』火を用い食べたと言われています。縄文時代から貝塚から発掘された中に貝類があったのは周知のとおり。だから海苔もその当時から食べられていたのではないかと、言われています。
海苔という文字として残っているものは『陸奥国風土記』(むつのくにふどき)にある日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の歌です。
その後、飛鳥、奈良時代に入り仏教が広まるにつれ殺生が戒められ、それまで以上に海藻が食べられるようになりました。
『大宝律令』(飛鳥702年2月6日)には租税として海藻が定められ紫菜(のり)の名称で徴収されたと記録されています。それにちなんで昭和42年に、2月6日を『海苔の日』と定めました。
紫菜(のり)という呼び名は中国から来た呼び名で平安中期になると『延喜式』(927年)に租税の対象としてアマノリ、ムラサキノリという名前が出てきます。ムラサキノリは佃煮や味噌汁に使われるようになります。
ただ、海苔などの海藻は当時は貴重品であったため、特に海苔は規定量の少なさからも特に希少価値があっただろうと思われます。貴族でも階級の高いものしか口にできない贅沢品だったのです。
そんな海藻を食べる習慣が一般庶民までに広まったのは。『浅草海苔』の名が生まれた江戸時代からでした。
海苔の養殖が始まり、今までのように天然自生に頼らず急激に生産量が増え庶民にまで手が届くようになりました。 徳川家康が品川の漁民に将軍家へ日々新鮮な魚を献上するよう命じたのがきっかけでした。
悪天候や不漁で日々献上できないことがないように、生簀(いけす)を設けました。その生簀(いけす)は、粗朶(そだ)と呼ばれる枝付きの木や竹をひび(柵囲い)し魚を保存していました。そのひびに海苔が付着し繁茂することを発見したことが、海苔の養殖の始まりなのです。家康に新鮮な海苔を献上するため品川・大森を中心に海苔の養殖が始まりこれまでの数10倍という数が市場に出回り庶民に浸透していきます。
江戸中期になると浅草紙の技法を応用し、生海苔を紙状にすいて乾かした「板海苔」が誕生します。 板海苔の登場により「巻く」という発想が生まれ屋台ずしが大流行し、『東海道中膝栗毛』には町民がとろろ汁に焼き海苔をかけて食べていることが記してあります。『浅草海苔』として全国にその名が広がりました。もう、この時代から私たちの食生活とあまり変わらない食べ方をしていますね。
海苔の養殖も江戸漁民の独占であったものも、やがて地方にも広がっていきました。だから、「有明海苔」と呼ばれている海苔は実は「浅草海苔」とも呼ばれているのです。浅草海苔の種を全国に広めたからなのです。
明治時代になり明治天皇が京都への御料品として「薬味海苔」が献上されたのが味付海苔のルーツと言われます。戦後イギリスのキャサリン・メアリー・アンドリューという紅藻類の研究をしている学者が海苔の人工種付けの技術を発見し、その後、日本各地の水産試験場で研究が進められ本格的に全国で海苔の養殖が始まりました。
現在では、焼き海苔、味付海苔、刻み海苔等年間100億枚もの海苔が食べられています。 |
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